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緑の政策研究会の勉強会、第2回(10月18日)の講師は真下俊樹氏。真下さんはフランス緑の党が成立した1984年にフランスに滞在して、その成立過程をみまもった。緑の党の政策担当者A・リピエッツ氏とも親交があり、日本への緑の政策の紹介者でもある。最近、編まれた『緑の政策事典』(緑風出版)は、この国に〈緑の可能性〉をもとめる人びとにとってバイブルとなっている。
この真下氏を招いて開かれた今回の学習会のテーマは「フランス緑の党と雇用政策」。以下、その要旨を報告する。(文責/戸沢行夫)
フランス緑の党の成立はドイツより遅いが、エコロジー的な考え方をもった人びとが政治の舞台に登場したのはヨーロッパで一番早い。遅かった理由は、他の多くの国と同様、既成政党への嫌悪があり、それを払拭するための模索期間が大変長かったからです。
彼らの多くは学者や知識人、ジャーナリストなどで、当初は選挙ではなく、エコロジーの問題を広く訴えることが目標でした。それが77年の統一地方選挙で各地の市町村レベルで候補者を立て地方議会に進出し、さらに79年には欧州議会選挙へ候補者リストを出しました。このとのきは得票率が5%条項をクリアできなかったんですが、もう少しで届いたということで、これを機に多くの無党派の中から恒常的な組織化の議論がではじめたんです。
そして、政治運動体である「政治的エコロジー運動(MEP)」が82年11月に「緑−エコロジスト党」を立ち上げ、つづいて翌年5月、厳密な意味での政治活動を志向していない「エコロジスト連合」が「党」を名乗らず「緑」という運動体を形成しました。
さらに、84年1月、この2つが結び、「緑−エコロジスト連合−エコロジスト党」=「緑の党」となったんです。
連立政権で政策実現へ
84年から92年は緑の党の定着期といわれていますが、この時期、党内には2つの立場がありました。1つは設立に大きく関わった左翼系の人びと。もう1つは労働組合に不信感をもち、左翼を嫌悪する環境派。後者の政治的立場は「中道」にあり、選挙でも安易に多数派とは協力しない考えを持っていました。
ちょうどこの頃、左翼政権は汚職などで腐敗し、また、政策でも失敗を重ね、信用を失墜。これに反比例して、緑の党や環境派の人びとの得票率は上がり、10%を超えるまでになっていました。しかし92年の総選挙では、得票率は上がっても、小選挙区制のもとでは議席が獲れないという現実にぶつかります。
そこで94年の党大会で社会党との連合が模索されはじめ、結果的に、のちに女性の国土整備・環境大臣となるドミニック・ヴォワネを中心とした左との連合を志向する現実派と、もう一方の純粋環境派とが袂を分かちました。その間、緑は地方レベルで首長や議席を確保できるようになり、97年の総選挙で「緑の党−社会党共同文書」を交わすに至ります。結果この選挙で、緑の党からは、社会党の推薦を受けた1人を含め8人の国会議員が誕生し、また、ヴォワネが入閣を果たし、得票率もあがりました。
彼女はこの連立政権での成果について「運動だけでは10年かかってもできなかったことが、1年でできた」といっています。具体的には高速道路の建設中止、巨大運河の開削中止、新型原発計画の中止などが現実化しました。
その後、政党としての緑の党は共産党を凌ぐ左派第2党になり、信頼に足る政党としての評価を得ています。組織も党員約9500人を数え、ほとんどが地域や地方、各分野で活動し、現場や運動の事情に通じている人びとです。
さて、連合政権の政策ですが、そのほとんどは緑の党が出してきたものです。社会党との協定の際、緑の党の政策の九割を社会党が受け入れました。というのも、左翼の政策は、ミッテランの初期に出尽くしてしまっていたからです。しかも、それらは失敗したものが多く、特に、主として有効需要の刺激と公共部門の雇用拡大をはかった経済政策の失敗は大きかった。
先進国では低所得層にお金がまわっても、そこで買うものは輸入したものが多く、好況につながらないことが多い。お金が外国に流れるので、好況にならず、税収も伸びない。公共部門で雇用等を引き受けようとすると、財政破綻する。そんなわけで、ミッテランのときは、保守政権と同様、経済の管理をする政策しかできなかった。
左翼は得票があるが政策がない。緑の党は政策があるが票をもっていない。この両者が不信をもちつつも、協力しているのは、そういう事情なんですね。プラスに考えれば、緑は具体的な行政を動かす力を得て、左翼は若い緑のエネルギーを得て、具体的に進むことができるようになったということです。
労働時間短縮による雇用創出
さて、雇用対策についてですが、ここ数年、フランスの失業率は急速に落ちています。これは、緑の党が提言した労働時間の短縮政策が反映しています。
かつて左翼も時短を言っていたことはあります。実際、81年、政権を取ったミッテランは週の労働時間を1時間減らして39時間にしました。しかし、これは失敗に終わった。労働時間短縮は、労働生産性の上昇に追いつかないで生産性が上がるため、雇用を増やすことにはならなかったんです。
特にサービス部門の省力化が進んだ。たとえばスーパーのレジは、日本なら10人でやる仕事を3人でやっているような状態でした。当然、サービスは悪い。結局、企業は補助をもらって人を雇わず省力化に使うために、意味を成さなかったんです。そして、この失敗後、いっさい労働時間短縮をやめてしまった。
それが連合政権となってからの98年、オーブリー法が発効されます。これは、法定労働時間は週単位で39時間から35時間にするか、あるいは年間1600時間にするかのいずれかを実現しなくてはならないというものです。その実現の仕方は労使交渉に任されています。企業単位や職場単位、業界単位など、どういう範囲をカバーした交渉でもいいし、年単位や週単位でもいい。賃金についても自由。労使交渉待ちで、どうなるかわからないところもあるが、法定労働時間の施行前に35時間に移行して雇用の創出などをすれば助成金(時短奨励金)が出ることになっているので、かなり交渉が進み、協定が結ばれてきています。
ただ、これまで合意したのはほとんどが大企業です。中小企業は労働の再編が難しいので、配転などもできず、難航しているのも確かです。
これまでの結果をみると、10%の時短で4.2%の雇用創出または維持ができたことになる。全雇用者が35時間制に移行すると、74万人の雇用創出または維持ができるといわれています。
これからの失業対策
フランスでは、労働組合の組織率がヒトケタと低く、労働時間の弾力化が進んでいるため、固定資本の稼働率が上がらなかった。その分、労働者への賃金に影響せず、9割の人は賃金を下げずに時短を享受することになったが、一方、5割の労働者が向こう26ヵ月賃上げなし、2割が30ヵ月の賃金凍結を受け入れています。いずれ、賃下げが行われることになる。
時短コストは、3分の1が企業の負担ですが、四割は労働者負担です。
そして残り27%は政府の補助なんですが、この補助金が予定を超えて大きくなり、時短財政が赤字になっています。そこで、政府は、本来払うべき失業コストが時短により回避され、失業保険や社会保障の支出減になるので、そこから還流するつもりだった。ところが、社会保障財政が540億フランの黒字にもかかわらず、各界がそれを廻すことに反対したため、タバコ税やディーゼルエンジンへの課税(環境税)等をあてることになったんです。
つまり、時短による雇用創出効果はあったが、その幅は想定された程ではなかったということです。
失業率低下(100万人以上減った)の原因も、その3割は時短効果ですが、あとは経済成長によるものです。この成長は、97年ごろからの財政緩和(ユーロ導入のためマーストリヒト条約で、財政赤字を対GDP比で3%以内に、債務残高を同60%以下に抑えられていたが、緩和された)の影響が大きい。また、90年代後半のアメリカの好況が、ヨーロッパにも広がっていたということもあります。
しかし、成長が今後も続くとは限らない。テロの影響もあり、ヨーロッパも先行き暗い状況です。この3ヵ月に限っていえば、フランスの失業率は上がり続けている。経済成長を期待して失業を吸収することは無理だから、生産性を大きくしのぐ大幅な時短が必要といえます。これがほとんど唯一の失業を減らす方法といえるでしょう。
【結からのコメント】
日本で急速に増える失業を時短だけで吸収できるとは思わないが、時短の考え方は大きな力にはなるだろう。それには社会保障や福祉の充実、何より「豊かさとは何か」を問い直す人びとの「意識」の変革が必要になろう。(戸沢)
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